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背負子とボッカ [いなかの伝承]

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写真は何の関係もないですが・・・

二つ前のブログで背負子の話をしたけど、それにまつわる話をどこかで色々読んだような気がしてちょっと調べてみました。するとビックリするようなことが出てきて改めて感心。まずは山形県の酒田市で庄内米の船積みに従事した女性の資料。

それによれば彼女たちは一俵60キロの米俵を5つ乗せ、300キロの荷を運んだとある。戦後労働基準法ができて、女性は重い荷物を持てなくなったが、この時彼女たちは「それでは生活ができない」と不平をいったという。

うちの親父も生前「米俵を両肩に担いだ。背中に背負えば3俵は運んだ」と話していた記憶があり、当時は田舎で生活した人ならば必要に迫られて米俵2〜3俵、120〜180キロの重量は普通の人でも運ぶのが普通だったのかもしれない。

また重い荷物を運ぶといえば、新田次郎の小説「強力伝」がある。標高2,932mの白馬岳山頂に、花崗岩でできた風景指示盤を分解した一つ50貫(190キロ)の岩2つを人力で運ぶ、富士山一の剛力・小宮正作の偉業を書いたものだ。

この時小宮がこの難しい仕事を引き受けた理由の一つに「牛殺し」という硬い木でできた背負子が手に入ったからというのがある。190キロもの岩を運ぶのであれば、それなりに頑丈な背負子でなければ運べないとは、納得しやすい理由だ。

ところが松本と飛騨を結ぶ野麦街道のボッカは、「それは本当か?」と不信を抱いた。「そんなに重いものが本当に背負えるのか?」と疑問を持ったのではなかった。彼らもまた普段から50貫の荷を背負い野麦峠、大平峠、安房峠といった難所を越えていたのだ。30貫では駆け出し扱い、あるいは女でもそのくらいは運んだという。

50貫もの荷を運ぶに背負子は頑丈でなくてはならないが、野麦街道を通ったボッカたちの背負子はどんなものだったかといえば、軽く粘りのある青木を割り取りして、できる限り軽く作られていた。少しでも用具の重量を減らせばそれだけ楽になるし、背負った重量は背負子にかかるのではなく背中に受けることで、軽い木でも耐えられるからである。牛殺しや樫の重い木では仕事がきつくなるのだ。

当時は荷を運ぶには牛や馬もいたのに、野麦街道のボッカはなぜそんなに重い荷物を運んだのだろうか。そこには牛馬の荷を運ぶ限界が関係している。牛馬は荷物を運ぶ場合に両側に振り分ける必要がある上に、牛馬では荷物をつければ1日つけっぱなしなので最大40貫の重量制限があったことは知られていない。

また振り分けられない荷物は人が運ぶしかなかったので、どうしても重いものは人が運ぶことになった。また雪が積もれば牛馬では歩けなくなるが、人ならばカンジキを履いて歩くことができた。ボッカたちは列になって50~60歩歩いては念棒を荷の下に入れ、休み休み1日3里を目当てに運んだという。

昔の人たちは男でも女でもそうしなければ生きていけない現実の前に、重い荷物を持つ事に徐々に慣れていったのだろう。現代人は数字を聞くだけで「不可能だ」と頭で判断してしまい、持てるはずのものさえ持てなくなっているのかもしれない。
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