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2重の虹 [いなかの伝承]

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北風も冷たく、すっかり冬らしくなった今日この頃。今日は雨が降ったり止んだりの変な天気で、思い切り晴れ間が出ているのに雨が降っているので、きれいな二重の虹が出てきた。こういうのは「キツネの嫁入り」なんていわれたんじゃないだろうか。

「狐の嫁入り」にも色々な伝承があるようで、『越後名寄』には「夜間の怪火が野山に一里あまりも続く」と記録されている。この伝承はまさに地元でのものでもあり、昔はそんなこともあったのだろうかと思う。

実際この辺りにはキツネに関する伝承も幾つか残り、80を過ぎたじじばばの間ではまことしやかに「今の人は信じないだろうが、この辺りでも昔はキツネに騙された人が本当にいたんだ」などと話してくれる。

近くの津川という地区では狐火にまつわる数多くの話があるが、「狐の嫁入り行列」という祭りが毎年行われている。ここは最近では少なくなったらしいが、狐火の出現率が世界一(どうやって調べたんだろう?)らしい。夜中に長い怪火の行列が見られるのなら、ちょっと見てみたい気もする。
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また古銭を見つけた [いなかの伝承]

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今日も菅刈集落の山の上を抜ける菅刈古道沿いにある薪を下ろしに行ってきた。そのついでに今まで興味がありながらも、なかなか行く機会がなかった古道を先に進んでみた。本当にこんな道を歩いたんだろうか、そもそもこれは道なのかと思うような、尾根伝いに人一人がやっと通れる獣道のようなものが残っていた。

蹴つまずいたら一気に谷底まで転げ落ちるような険しい道で、木の根元にはマムシがとぐろを巻いていたりと、亡くなった人がいても全く不思議がない。古道は残念ながら途中で藪に覆われて進路がわからなくなってしまい戻ってきたが、いつもの山の神さまに手をあわせると、毎回見ていたはずのところに雨で土が流されたのか、また古銭が見つかった(前回は「ちょっと歴史の裏道へ http://photo-bici.blog.so-net.ne.jp/2016-06-15」)。

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今度の古銭は前回の寛永通寛よりも痛みが激しく文字が読めない。というよりも、作り自体が結構雑にも見える。寛永通寛よりも少しだけ肉厚でサイズも微妙に大きけど、寛永通寛も百以上ものバリエーションがあるらしく、作られた地域が違うのか時代が違うとしても、同じ一文銭の貨幣かもしれない。

どうやら「寛」らしき文字と「通」らしき文字が見えるので、前回とは違う寛永通寛のバージョンだろう。でもこの古道の歴史も古いので、この古銭がいつ頃のものでどんな人が手を合わせた時のものやらと、思いを巡らすのはちょっと楽しいことでもある。
タグ:菅刈古道
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ちょっと歴史の裏道へ [いなかの伝承]

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今日も昼から薪を下ろすために近くの集落の裏山に上がってきた。杉やブナ、椎などの木を山の上から下ろす訳だけど、この山道が道というよりも獣道そのもの。ところが山頂には祠があって、どうやらこの道は江戸時代以前からある古道の一部らしい。

祠があるといっても、文字通り石の祠があるばかりで、神様らしき本体は見当たらない。昔はあったのかもしれないが、雪で流されてしまったのだろうか。もっとも日本の神様は姿形がない場合も多いので、石の祠自体に意味があり、神様の代わりと考えてもいいのかもしれない。

中身がないとはいえ一応は神様。自分も滅多に人も通らない山中で仕事をするわけで、大抵はたどり着いたらまずはその日の安全に手を合わせている。まあ、気の持ちようだし、おまじない程度のつもり。

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ところが今日も手を合わせた後に下を見ると、この古銭が目についた。枯れ葉に埋もれ、錆びていたので文字は読めなかったが、帰って錆びを落とすと「寛永通寶」とある。調べると鉄の一文銭で、元文4年(1739年)頃から通用したものらしい。ということはざっと300年近く前の旅人が、旅の安全を祈願してお参りしたのだろうか。

確かにこの山の下には松之山古道と呼ばれる道があり、1300年代から関東に続く道として利用され、戦国時代には上杉謙信の軍道としても利用されたという。当時この集落の隣になる犬伏(いぬぶせ)や松代には関所が設けられていたというので、メインの通りからはずれたこの古道も手形のない人々に利用されたのかもしれない。

地元の年寄りに聞くとこの祠は「秋葉様」で、防火の神として昔はこの祠のそばでお祭りも行われていたという。確かに今、木を切っているところは5×20mほどの平坦部分があり、少人数ならば十分にお祭りごとも行えたかもしれない。

秋葉様が祠の場合は火伏せの神でもあるため、燃えにくい石造りの祠などが見かけられるらしいが、確かにここの祠は石をくりぬいたものだ。小さな祠であることが多く、一つの町内に何箇所も設置されている場合もあるというが、まさしくその通り。

秋葉さまの神徳は一に剣難、二に火難、三に水難といわれ、中世以来武士の崇敬を集めたというが、すぐに軍道に繋がる道となればなおさらだろう。またこの神さまは普段は人々の生活を守り富を与えるといわれるが、その神を怒らせると荒れ狂い、すべてを焼きつくして家や財産、ときには命も奪われてしまう。脅威と恩恵の二面性は自然神の基本的性格だが、生活に密着した「火」の神さまだからこそ、古くから大事に祀られてきたのかもしれない。

「こんなところに祠なんて」と、ちょっと信じてなかったけど、古くからの神様とわかったからにはこの古銭もお賽銭だろうし、ちゃんと返してお参りしなければ。
タグ:菅刈古道
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背負子とボッカ [いなかの伝承]

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写真は何の関係もないですが・・・

二つ前のブログで背負子の話をしたけど、それにまつわる話をどこかで色々読んだような気がしてちょっと調べてみました。するとビックリするようなことが出てきて改めて感心。まずは山形県の酒田市で庄内米の船積みに従事した女性の資料。

それによれば彼女たちは一俵60キロの米俵を5つ乗せ、300キロの荷を運んだとある。戦後労働基準法ができて、女性は重い荷物を持てなくなったが、この時彼女たちは「それでは生活ができない」と不平をいったという。

うちの親父も生前「米俵を両肩に担いだ。背中に背負えば3俵は運んだ」と話していた記憶があり、当時は田舎で生活した人ならば必要に迫られて米俵2〜3俵、120〜180キロの重量は普通の人でも運ぶのが普通だったのかもしれない。

また重い荷物を運ぶといえば、新田次郎の小説「強力伝」がある。標高2,932mの白馬岳山頂に、花崗岩でできた風景指示盤を分解した一つ50貫(190キロ)の岩2つを人力で運ぶ、富士山一の剛力・小宮正作の偉業を書いたものだ。

この時小宮がこの難しい仕事を引き受けた理由の一つに「牛殺し」という硬い木でできた背負子が手に入ったからというのがある。190キロもの岩を運ぶのであれば、それなりに頑丈な背負子でなければ運べないとは、納得しやすい理由だ。

ところが松本と飛騨を結ぶ野麦街道のボッカは、「それは本当か?」と不信を抱いた。「そんなに重いものが本当に背負えるのか?」と疑問を持ったのではなかった。彼らもまた普段から50貫の荷を背負い野麦峠、大平峠、安房峠といった難所を越えていたのだ。30貫では駆け出し扱い、あるいは女でもそのくらいは運んだという。

50貫もの荷を運ぶに背負子は頑丈でなくてはならないが、野麦街道を通ったボッカたちの背負子はどんなものだったかといえば、軽く粘りのある青木を割り取りして、できる限り軽く作られていた。少しでも用具の重量を減らせばそれだけ楽になるし、背負った重量は背負子にかかるのではなく背中に受けることで、軽い木でも耐えられるからである。牛殺しや樫の重い木では仕事がきつくなるのだ。

当時は荷を運ぶには牛や馬もいたのに、野麦街道のボッカはなぜそんなに重い荷物を運んだのだろうか。そこには牛馬の荷を運ぶ限界が関係している。牛馬は荷物を運ぶ場合に両側に振り分ける必要がある上に、牛馬では荷物をつければ1日つけっぱなしなので最大40貫の重量制限があったことは知られていない。

また振り分けられない荷物は人が運ぶしかなかったので、どうしても重いものは人が運ぶことになった。また雪が積もれば牛馬では歩けなくなるが、人ならばカンジキを履いて歩くことができた。ボッカたちは列になって50~60歩歩いては念棒を荷の下に入れ、休み休み1日3里を目当てに運んだという。

昔の人たちは男でも女でもそうしなければ生きていけない現実の前に、重い荷物を持つ事に徐々に慣れていったのだろう。現代人は数字を聞くだけで「不可能だ」と頭で判断してしまい、持てるはずのものさえ持てなくなっているのかもしれない。
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今年の雪は? [いなかの伝承]

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11月も中旬を迎えて、そろそろ初雪がちらついても良い頃だ。昨年は大雪で大変だったこともあって、どうしても雪のことが気になってしまう。

そんな折り、お隣のばあちゃんが面白い話しを聞かせてくれた。
いわく「椿の芽(花?)が葉っぱの上に出る時は雪が少ないって子供の頃には聞いたねぇ。本当のところは、もう60も70年もここで生きていてもわからないけどねぇ」というもの。

この写真でいえば手前の芽は葉っぱの上から出ている。奥に見えるのは葉っぱの下から出ているものもあるけど、木全体を見れば確かに葉っぱの上から出ているものが多い。

雪が多い年は芽を守るために葉の下から芽を出し、雪で潰される心配がない年は葉の上に芽を出すというのは、「そう思いたい」という気持ちから出たものだとしてもおもしろい。
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「道普請(みちぶしん)」ってなに? [いなかの伝承]

少し前の話しですが、私がこの地区で行った最初の共同作業が「みちぶしん」だった。ところでこの「道普請(みちぶしん)」、最初に聞いたときには、恥ずかしながら全くなんのことかわからなかった。

生まれてこの方、こんな言葉は聞いた事もなく、「みちぶしん」という単語さえ、聞き間違いなのかそれで良いのかさえ判断がつかなかったのだ。

「みちぶしん」とは、田舎の様々な共同作業の一つで、生活用、農業用の道の点検と清掃と、道の周辺の草刈りや枝打ち、水路の清掃をすることだった。主に春と秋にやる作業で、田植えや稲刈りが終わっていっとき手があいた時期に行われる。

水路には冬の雪の間に様々なごみや枝、土砂などが溜まりますが、春になりそれらを取り除き、水の流れを良くするためのもの。作業の単位は「隣組」で、各組の班長が中心になって作業を進める。

必要な道具は、各自が出せるものを持ち寄って、自分ができる作業をするわけですが、なにも知らずに鎌など持って行くと、ずっと腰を屈めて草刈りをしなければいけないので、どんな道具を持って行くかはけっこう重要だったりする・・・が、これは後から気が付いた。

もちろん「無理をしない程度に」という大前提もあるし、集まるのは元気な若者のはずだけど、隣組に所属する男衆に若者なんていないことがほとんど。私が「若いもん」といわれるくらいで、ほとんどは70代中判以降、80代の人も少なからずいる。

病気や体力的に無理な人は参加を見合わせますが、1つの組に3〜4人しか男衆がいなければ、そうも言っていられない。でも、こういう共同作業をする事で周りの人達と話をする機会が増えるし、顔を覚えてもらう事もできるので、新入りとしては必要なことかもしれない。

以前は私の組でもこの作業が終わったら、夕方からはみんなで集まり酒を酌み交わしたらしい。ですが、今年からは集まりも悪く、みんな歳をとった事もあって、この飲み会は行われなくなったのはちょっと残念。

これが今でも続いていれば、お酒の力もあってより地元の人と打ち解ける事ができたのかもしれないけど、やはり歳には勝てない。こういう現実を見ていると、ほんとに人がいなくなって行くんだなぁと感じる。

一足先に移住した人の話では、「この1年半で何度葬儀があったか」というし、亡くならないまでも高齢になり、1人では生活がままならずに子供のところに引っ越す人も少なくないし、施設に入る人もいるようだ。

たぶんどこの集落でも同じでしょう。お年寄りがいなくなる事で少しづつ伝統も文化も消えてしまうようで、ちょっとしんみりとなる。でも元気な年寄りがたくさんいる事もまた事実で、90近くになっても朝早くから元気に畑に出て来る人もいるので、そんな人に昔話しを聞くのも楽しみのひとつ。

なんといっても彼らは時間に追われているわけじゃないので、話しは尽きる事がないし、地元の古い話しを聞くのは興味津々。でも言葉がときどきわからないんですよね〜。
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人骨山と里見氏 [いなかの伝承]

以前「いなかの伝承」カテゴリーで、千葉県の「人骨山」について書いた事がありましたが、先日房総に行ったときに近くを通りました。それでまた少し調べてみたのですが、どうやら房総半島というのは面白いところで、全国で2,500ほどある貝塚のうち500が千葉県にあるようです。さらに古墳の数は千葉県内に12,000基もあって、全国1、2を争うようです。

ところが回りをぐるりと海に囲まれた房総半島にあって、この人骨山の辺りは貝塚が発見されていません。貝塚の生まれた背景はまだはっきりとわかっていないようですが、人がいなければできないことは間違いがなく、過去の記事に書いたように「人骨山のある辺りは昔はあまり人が多くなかった」という話しと符合するようです。人骨山の回りは「大崩(おくずれ)」という地名があちこちにあるので、そんな土地柄なのかもしれません。

さらに新しく見つけた情報は、「人骨山は里見城ののろし台が設けられていた場所」ということでした。人骨山に登った事はありませんが、ネットで見る人骨山の頂上は見晴らしが良く、高い山のない房総半島はこの人骨山からは内房も外房も、三浦半島さえもが見渡せて、のろし台を置く場所にはピッタリ。頂上付近の地形も小さな城を置いていたと思える場所のようでした。もっともこの城については私は知識がないので、ネットにあったものの受け売りです。

ここで里見氏の埋蔵金伝説がふたたび思い出されて来ました。埋蔵金伝説については「(人骨山の人食い鬼・3)http://photo-bici.blog.so-net.ne.jp/2013-12-12」で書きましたが、そのとき「本命の小松寺ではなく信憑性が薄い富浦のほうが案外本命では?」と想像しました。その想像も今回ののろし台、回りに人が住まなかった地理的環境などと相まって、ますますこちらが本命なんじゃないだろうかと思い始めました。

里見氏が房総で活躍したのは500年前から350年ほど前までのこと。人骨山の鬼伝説がいつ頃のことなのかわかりませんが、またの機会に調べる事ができればと思っています。ところで房総半島の里見城の下で生まれ育った私ですが、この里見家は鎌倉時代以降新潟県十日町に所領を得、越後とは縁の深い関係らしく、なんとなく自分と十日町の縁をこじつけたくなる話しです。
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フキノトウ発見! [いなかの伝承]

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先日、よくおじゃまするブログの「いいかげん de イイ感じ」の「季節にまよふ(http://ekagen123.blog16.fc2.com/blog-entry-2247.html)」中に、春の山菜フキノトウが雪の中に出て来た話しがでていた。「これから真冬になるのに、フキノトウが出るなんて!」と驚いたのだが、どうやらこれは珍しいことではないのかもしれない。

ここの「ひまわりパン」のお母さんも、「ここいらじゃ、今頃フキノトウが出て来るので、それを鉢植えにしてお正月に天ぷらにして食べるんですよ」と、教えてくれる。「へ〜、ヘ〜、へ〜」と驚いていると、なんとうちの玄関先にも小さなフキノトウが出ていた。「フキノトウは春」という思い込みで、探すこともなかったけど、キノコも山菜も春秋の同じような条件だと出て来るんですねぇ。
タグ:フキノトウ
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霜が降りると雪が遅い [いなかの伝承]

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昨日廃材をもらいに行ったところは県境に近い山奥で、4つの小さな集落がひとつになってなんとか共同体の体裁を保っているらしい。とはいえいまでは9つの家が残るばかり。4つのうちの1つは、あるときを境に全員が村を捨ててしまったらしい。その一番奥は「峠」という集落で、ここは文字通り隣の県との県境に近い。

その最終集落に近いところで廃材を頂いて来たが、そこの集落の出身というおばあちゃんの話しだと「霜が3回降ると雪が遅い」というらしい。今私が住んでいる十日町の小さな町の天候は、このおばあちゃんが住んでいる集落の方から変化するが、先週はこの集落の奥には雪が降ったと言う。

私達のところではまだ霜が降ったようには思えないけど、これは雪が早いという事になるのか。おばあちゃんの話しでは「昔からこの辺りではそう言っているけど、どうだかねぇ」といっていたが、もう家の周りはしっかりと雪の準備がしてあった。
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毎月12日は・・・ [いなかの伝承]

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12日は過ぎましたが、山仕事を生業とする人々の間では「十二様」という山の神様がいて、毎月12日は山に入ることをせず仕事を休んだという記述があったりします。この12日にあたる日が場所によっては8日だったり別の日だったりする事があるようですが、これは旧暦を使うのか別の理由があるのか定かではありません。

それと同時に山には物の怪の類いがいると頑なに信じられているところがあったり、「そんなものはいねぇ」と全く意に介さなかったりと、人によって、あるいは状況によつて感じ方が違うのも面白いものです。

ちなみに昔から林業が盛んだった埼玉の秩父地方では、物の怪の類いに関する話しはほとんど耳にしないようです。その替わりに「オーサキ」なんて動物が信じられていたりするのですが、物の怪よりも現金の方が生き死にに関しては大事だと思っていたのかもしれません。オーサキについてはまたいずれ。

「光あるところに影がある」とは昔のアニメ「サスケ」の冒頭の決まり文句でしたが、神様だけを信じて異界に棲むものを信じないわけにはいかないのは、神様とサタンの存在を信じる(らしい?)人達の信仰と共通するところかもしれません。

で、私の場合はただの恐がりなんですけど、山の中に1人で入って行くと晴れて光が射しているとそうでもないのですが、くもりだったり夕闇が近づくといきなり空気が冷たく感じて背中がゾクゾクして、つい辺りを振り返ったりしてしまいます。

なので、もしものためにポケットには鬼刃をつけたナイフをいつも入れています。携帯は届かないところも多いのですが、念のため。そして普通は手ぬぐいですが、軽く歩く時はバンダナをポケットに入れて行きます。幸い、今のところあやかしの類いには遭遇していません。(^^;
タグ:ナイフ
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不思議な社 [いなかの伝承]

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あれはどこに行ったときの事だったか?相棒がいた事は確かだけど、どうも記憶が曖昧で困る。いまでもときどき思いだすけど、山の中でお地蔵様が入るくらいの小さな社を見かける事がある。大抵は普通にお参りができるような道ばたなどにあるので、特になんとも思わずに過ぎてしまう。

ところが「なんでこんなところに?」と思う場所に奉られていることがある。記憶に残るのは・・・たぶん菅平辺りの峰の原高原にあがる山だったように思うけど・・・そうそう、行きは確かに相棒とマウンテンバイクでキノコを探しながら登っていたときだった。

目的地までの道ばたに小さな社がぽつりぽつり奉られていたけど、お地蔵様や道祖神の類いだと気にも留めず、キノコを探していた。山の斜面を見ながらキノコを探すわけだけど、山の斜面とはいえときにはそれが崖のように切り立っている事も珍しくない。

そんな崖を木に捕まりながら見下ろすと、なぜか崖の中腹に小さな社があった。上の道からはもちろん、下の道からも当然見えないし、お参りする術もない。あれはいったいなんなんだろう?

山歩きの人が増えたこともあって、間単な道でも疲れてつまずいてしまい、滑落して亡くなる方も珍しくないらしいが、そんな事故にあった方の供養ならばもっとお参りしやすいところに建てると思うんだけど。そんな小さな社を見た事がある人はいませんか?
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オーイ、オーイ、その2 [いなかの伝承]

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今日は雨で走れないのでちょっと時間ができた。そこで気になっていたことを簡単に検索してみました。すると山の声についてはあちこちで同じような言伝えがあるようです。

●山中の妖怪が人に呼びかける時には一声しか発しないので、山中で働く人々は、お互いを呼ぶ際に必ず二声続けて呼ぶよう戒められている。
●山仕事の際、平地とは異なる山言葉が用いられることがあるが、樺太アイヌでは山狩りの際に「おーい」と呼ばれたとき、うっかり声に釣られて行くと命が危ないといい、「人呼びおばけ」の意味でカヨーオヤシという。
●アイヌは山中で呼ばれたときに2度目までは聞き流し、人間だとわかったら初めて返事をするよう伝えられている。

マタギは山中では名前は呼ばずに、屋号のような名称を使うと聞いたこともあるけど、これも同じような理由なのかな?

昨日の記事では実際に返事をしてしまった人の話をだしましたが、2チャンネルに同様の内容が見つかったので、以下に出しておきます。この話しと昨日の話しは実に似ていると思います。

雷鳥一号 ◆zE.wmw4nYQ 2005/12/22(木) 19:35:18 ID:PJO/01Ta0

友人の話。

山中の池でバス釣りをしている時のこと。
脇の林の中から「おーい」と呼ぶ声が聞こえてきた。
段々と大きくなってくる。彼の方へ近づいてきているらしい。

やがて木々の間から男が一人現れた。
身なりはごく普通の登山者という印象だ。
しかし、目が虚ろで焦点が合っていない。
どこかまともでないのか、すぐ横にいる彼にも、まったく注意を払わない。

男は一旦立ち止まったが、すぐに「おーい」と大声を出して歩き出した。
何の怖れも感じていない様子で、じゃぶじゃぶと水の中に進んでいく。
友人は大いに慌て、男を引き止めるため追いかけたという。

さした抵抗を受けることなく岸まで引きずり戻すと、男は目を瞬いた。
「あの、ここは何処で、一体何があったんでしょう?」
ポカンとした顔で友人に聞いてくる。正気に返ったようだ。

事情を尋ねたところ、山歩きをしているとどこからともなく「おーい」と呼ぶ声が聞こえたらしい。
誰が呼んでいるんだろうと声の方に足を進めているうちに、気がつけば濡れ鼠で友人に抱きかかえられていたのだと。
「おーい」と声を出していたのはあなただったと言われた男は、信じられないという様子で首を振ったという。

男が無事に山道に引き返した後、彼は夕刻まで釣りを続けた。
残念ながらそれ以降の釣果はぼうずだったらしい。
「池の主様の邪魔をしたんで、怒らせちゃったかな」
そう言うと、彼は小さく舌を出した。
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オーイ、オーイ! [いなかの伝承]

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山に入って声をだすといえば、一般的なのはなんといっても「やっほー」。頂きに立ち、目の前の山並みに向かって「やっほー!」と叫んだ経験がある人もいるんじゃにだろうか。かくいううちの相棒も高いところに立つと「やっほー」がでる。ときにはやまびこが遠くから「やっほー」と返してくれるのもほのかに嬉しい。

私達の場合山といえば山菜狩りやキノコ狩りだけど、夢中になって探しているとはぐれてしまうことは珍しくない。というよりも、同じところを探しても能率が悪いし、連れよりも良いものを見つけたいという思いがあるので、どちらからともなく離れて行くのが普通だ。

それでもお互いに場所が分からなくならないように、ときどき「どうだぁ〜」とか「いるかぁ」などとお互いに声を掛け合い、位置を確認しながら探し歩く。そういえばキノコ狩りや山菜狩りの季節は、毎年のように行方不明のニュースがありますよね〜。

思えばいまでは薮の中で「おーい」と声をかけながら山菜採りをしたり、キノコ狩りをする人もいることは確かだけど、昔から人里馴れた山深いところで生きて来た人達の間では「山で『おーい』と呼ばれたら絶対に返事をするな」といわれている。山で「おーい」と呼ぶのは化け物で、呼ばれて返事をした者は「おーい、おーい」と呼ばれて行方不明になってしまうのだ。

戦後辺りまで山で生活していた人たちの間では、返事をしたために行方不明になった仲間や、なんとか引き止めて事なきを得たという話しがいくらでもあるようだ。ことの真偽は不明だが、実際に経験した人の話では、「思わず返事をしたら引き寄せられるように崖のほうに進んでしまった。仲間がいなかったら・・・」ということで、考えなしに呼ばれるままになってしまうらしい。

ところで、山で聞き慣れない声で「おーい」と呼ばれたときはどうすればいいのか?これはけっこう簡単で、一番聞き慣れた「やっほー」と返すことで黙ってしまうらしい。くれぐれも知らない声に「おーい」と返事をしないように。でもけっこう山の中で「おーい」って声は聞こえるんですよね。
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人骨山の人食い鬼・3 [いなかの伝承]

人骨山の人食い鬼の話しですが、mintonさんから頂いたコメントの返事で書いたのですが、別の仮説もしてみました。昔話しはこうしていろいろなことを考えることができるのが面白いです。

房総半島の保田周辺は、もう少し南から外房の九十九里になると海岸線ではいろいろな漁が出来たので、江戸時代にはそれなりの人が住んでいたようですが、人骨山のある辺りは昔はあまり人が多くなかったという話しを耳にしました。



房総半島の先端部の館山という町の海岸線には「北条」という地名があります。もともとこのあたりは南総里見八犬伝で知られる里見氏の領地でしたが、たぶん三浦半島の北条氏に攻め奪われたと想像できます。北条と里見は争いを続けていたんですね。

この里見氏には埋蔵金伝説があり「朝日さす夕陽輝く双樹の下に漆千盃 朱千盃 銭十億万貫を埋めておく。非常の際はこの財宝用うべし」と伝えられています。こうしたわかりやすい伝承は人目をそらす意味が大きく、まず疑ったほうがいらしいのですが、真偽はともかくその場所は館山市の内陸部にある、千倉(ちくら)に近い小松寺です。

小松寺は文武天皇の御代(683~707年)に役小角(えんのおづぬ)によって小さな庵が建てられたのが始まりといわれています。役小角とは、役行者(えんのぎょうじゃ)とも呼ばれ、「孔雀王の呪法を修持し不思議な威力を得て現に仙人となりて天に飛ぶ縁」との伝承などが残り、修験道の開祖として尊崇される実在の人物です。その影響があるのか、小松寺周辺には天狗伝説も残っています。

その庵が718年に御堂に建て替えられ、巨松山檀特寺になりました。その後火災で全焼して920年に再建され、檀特山医王院巨松寺と寺名を改めましたが、最初の名前とは順番が逆になっています。現在は檀特山小松寺が正式名称ですが「巨松寺」と「小松寺」では、音は似ているもののまるで印象が違って感じられます。

私は先の館山生まれということもあり、かれこれ30年ほど前にここの住職に話しを聞いたことがあります。そのときには裏山の尾根の端に、大きな二本の松の木が生えていたと聞きましたが、そこを掘らせて欲しいと言う人が年に何人も訪れたそうですが、財宝が出た話しは聞いていないということでした。もっともでたら黙って持って行くでしょうけど。

話しがだいぶそれてしまいましたが、小松寺と城との距離は3キロほどで、抜け道もあったといわれてるようです。もっとも城と抜け道はセットのようなものですね。その里見家の埋蔵金伝説はこの小松寺が有名ですが、外房の鴨川、内房の富浦にもあるとされています。

そちらは小松寺のように知られたものではなく、ほとんど埋蔵金関連の書籍にもでることがありませんが、案外こちらのほうが本命かもしれません。やっと人骨山になりますが、この富浦の里見家復興のための埋蔵金伝説の場所と、この人骨山はとても近いのです。

昔からなにかしら隠して人目につけたくない場所、人が来ないようにしたい場合や、荒らされたくないときには、物の怪や鬼などのよからぬ噂を流して人を避けたり、宗教的な聖地として立ち入り禁止として守ることが行われていました。小松寺では寺が、富浦では鬼がこの財宝を守っているのかもしれません。


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人骨山の人食い鬼・2 [いなかの伝承]

続きと言うわけじゃないけど、「鬼はなぜ若く綺麗な少女を求めるのか」というところが気になっていましたが、前回の話しでは一応「食べる」ことが目的になっていました。なので人骨山には骨がたくさんあるわけです。

でも食べるなら直接、穀類や肉、干物を出せといえばいいわけですし、女を食うにしても「美しい」必要はないですよね(話しは全く飛びますが、若い女が一番美味いという話しは聞いたことがありますが、これは確かめようもないですね。中国でならわかるかな?食人の習慣については最近でもベトナムだったかのニュースで、触れられていましたが、私も30年ほど前には旅行会社の添乗員から聞いたことがあります)。

特に房総半島なら回りは海で、海産物は豊富だし、山にはイノシシもいます。となると、鬼の目的は別の所にありそうです。食い物は山にもあるし海でも獲れるから、次はエッチ目的?まあそれも考えました。(^^;

日本中いたるところに鬼伝説があり、その中にはやはりこうした「若い女」を求める鬼が少なからずいるようです。それから推察すると1つの仮説が浮かび上がります。それは「人食い」ならぬ「人買い」です。これも似たような音ですね。

鬼の伝承はいつ頃が起源なのかわかりませんが、室町時代あたりからの記述が多いようです。この時代には長禄・寛正の飢饉が全国を襲ったそうですが、あちこちで口減らしのために幼い子供がいなくなったり、若い娘を売った話しが残っています。

当時は兄弟が多かったと想像しますが、若い娘がいなくなった理由を説明するために、鬼という得体の知れない者に連れて行かれた事にするのは、都合のいい話しなのかもしれません。働けない年寄りや労働力になる青年が全く要求されないのも、人買い説をより信憑性を持たせる気がします。

まあ1年に1人売ることで生き延びられるのかわかりませんし、山に定住しているなら盗賊の類いで、人買いの仲買人であちこちから集めていた?これも想像の域を出ないわけで、あの伝承が人買いが起源だとは言い切れませんが、そうやっていろいろなことを想像するのは面白くもあります。あっ、この話しも時代背景など裏は取ってませんので、軽く聞き流してください。
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人骨山の人食い鬼 [いなかの伝承]

昨日は友人に頼まれて、千葉の房総半島でロードバイクの乗り方セミナーを開催して来た。鋸山の南に位置するエリアで、好天の中50キロあまりで上り下りの変化に富んだサイクリングが出来た。その途中、「大崩(おくずれ)」という地名があってビックリ。「かつては山崩れなどが多発した地域なのかな」などと、辺りを見回した。

その近くにあるのが「人骨山」。「ひとほねやま」と呼ぶようだが、大崩れで亡くなった方達の骨がでて来たのかと思っていたら、どうやらそうではないようだ。この人骨山にあったのは鬼伝説で、その伝説とは以下のようなものでした。

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この山には昔から鬼が住んでいて、鬼は毎年節分の日になると『娘を人身御供に差し出せ。もし今夜のうちに人骨山の頂上まで連れて来ないと村中に大きな災いが起きるぞ』と書き付けを村人の家に投げ入れた。村人達は夜がふけるのも忘れ相談したが良い知恵が浮かばない。

そのうち泣き伏していた娘が『私が犠牲になっても、村の難儀が救えるのなら、私は山へ参ります』と、両親や村人の止めるのを振り切って提灯を手に山へ登って行った。娘は帰って来ませんでした。そんなことが毎年続き、村から娘が消えて行きました。

あるとき国々を巡礼している旅の修験者がこの村に来ました。そして『私はこれと同じ話を琵琶湖の畔で聞いた事がある。その村では子牛程もある猛犬を使ってこの悪魔を退治したと聞く』と話した。

喜んだ村人達は旅の支度もそこそこに遠い近江の国(現 滋賀県)まで行き、ドン太郎という犬を借りて来た。その翌年の節分の夜、いよいよ犬を山へ追い上げた。その夜は人骨山が一晩中蝎動し、村人達は恐れおののいて一夜を過ごしたというが、明け方には静まり、ドン太郎も無事戻って来た。

しかし村人は娘を差し出した家の両親や兄弟の心情を思い、節分の日を思い出す行事はしない事にし、今でも大崩の畑地区では節分の日に豆まきをしない風習が守られているという。その後、山には鬼に喰われた娘達の骨が残っていたために、人骨山と呼ばれるようになった。
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ところで、この伝承では納得できないものがある。まあ伝承なので細かな事をいうのもなんだが、しかし人骨山は鬼の伝承以前からの名前なのだから、これでは順番が逆になってしまう。それを不思議に思うと人骨山にあるのは鬼伝説だけではなかった。

というのも、この人骨山は姥捨山だったらしい。そもそも多くの場合、鬼とは様々な理由から人が転化するもので、今昔物語には「人里離れた山に棲む老婆は鬼と化す」とあるし、人骨山の由来はこの姥捨山に捨てられた多くの老人から来ていることを想像させる。そして鬼伝説の由来も、あるいはここに捨てられた人が生き長らえ、始まったのかも知れない。意外なところから鬼の伝承が見つかりました。
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魔性の鳥 [いなかの伝承]

唐突に思い出したので、忘れないうちに伝承の類いを1つ。

今から半世紀ほど前のこと、北海道の千歳ではアイヌ語で「ケナシウナルベ(魔性の鳥)」と呼ばれるフクロウの仲間がいた。このフクロウは今ではもう見ることができないというが、半世紀ほど前には山に入ると特定のエリアで見ることができたらしい。

大きさは10センチほどというので、フクロウとしてはかなり小型になる。手鞠のような、尾っぽのない鼠を水につけたような、ぼさっとした黒っぽい鳥だったという。ちなみに現在日本で見られる最も小型のフクロウは、コノハズクと呼ばれる種で、体長は20センチほど。
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これは「アカスズメフクロウ」で、体長15センチほど

神に祈る言葉をいろいろ知るアイヌ達にさえこのフクロウが嫌われるのは、この鳥が災いを連れて来るからだといわれている。奇妙な声でいろいろな音の響きをまねて人に聞かせるのだ。

たとえば浅瀬の川があると、そこを大勢の人が川を歩くような「ジャボッ、ジャボッ」と音を出したり、何十人もの人が騒ぐような「うぉぉ、うぉぉ」と声を出したり奇声を発したり、そうした音を何種類も同時に出し、「ボシュッ、ボシュッ、うぉぉ、ボシュッ、ギャ〜」とやったりするらしい。

これには何日も熊を1人追い、山中での生活に慣れたアイヌの猟師達でも「熊なんかよりずっと恐い」と恐れ、眠れない夜を過ごすことになったという。(1923年生まれ アイヌ民族最後の熊撃ち猟師 柿崎等さんの語りから)
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花魁淵(おいらんぶち) [いなかの伝承]

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同じ写真(http://photo-bici.blog.so-net.ne.jp/2010-08-07-1)の使い回しです

昨日のサイクリングコースは、青梅街道(国道411号線)なんですが、ここには都内から山梨県で有名な心霊スポット「花魁淵」があります。もっともこの辺りは「祟り山」「自害沢」「位牌山」「病ヶ沢」「骨窯」「生首」「地獄谷戸」「新発意(シンボチ)」「御霊の尾根」「天蓋山」「位牌平(イハイデーロ)」などなど、忌み地といわれるところがこれでもかってほどもある、不思議な場所でもあります。

花魁淵の話しはただの伝説ともいわれますが、それなりの理由もあるようです。ことは戦国時代、武田氏は徳川家康に滅ぼされてしまい、同地の金山も盗られるよりは閉鎖することに。金山を管理していた役人が慰安の祝宴を開くという口実で、ここで働いていた遊女達を呼び出し、谷の上に吊った舞台で躍らせたのち、舞台を支える縄を切断し、遊女達は金山の秘密漏洩を避ける目的で激流の谷底へと落とされた。


無念の死を遂げた遊女達の呪いなのか、同所には女性の幽霊の出没、不可解な交通事故等が多く、怪奇現象の報告が後を絶たないようです。もっとも多くの場合は又聞きで、どうも現実味は薄い気がします。とはいえ、この周辺は地形が険しく、崖崩れによる通行止めもたびたび発生するし、見通しの悪いコーナーも連続する難所。夜中にこんな噂がある場所を走れば、事故も多発することは容易に想像がつきます。あとはその事故に尾ひれがついて行くパターンが多いのだろう想像します。

ところで今回走ったこの道は、2011年11月21日に複数のトンネルを含むバイパス道路に変更され、花魁淵のあった道路は立ち入り禁止の廃道となっていました。道の入り口を塞ぐだけでなく、廃道工事もするようです(廃道工事ってなんだろう?)。花魁淵伝説は廃道とともに封印され、やがて人々の記憶から消え去ってしまうのでしょう。ちょっと寂しい気がしなくもないですね。

なんとなく隣り合った塩山市(現甲州市)と丹波山村の政治的な問題もあるように感じますが、それとも本当にいろいろあって、このエリアを閉鎖したのかな?ちなみに私はここは何度か通っていますし、止まって川を覗いたこともありますが全くなにも感じませんでした。霊感0かも。(^^;
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田舎に行ったら [いなかの伝承]

明日はレースなんですが、今日はちょっと時間に余裕があったのでネットを彷徨っていたら面白い話がありました。以下はその文章です。

「青森の話なんですが、青森市の郷土館って所にサンスケ(山介?山助なのかな?)という人形が展示されてました。山に入るときには12人という人数はタブーらしく、12人で山に入るときはサンスケを用意して、13人ですよ、って事にするそうです。12人だとなぜ良くないのかは知りません。一説によるとむしろ13人という人数の方に意味があって、12人でいると、いつの間にか人間ではない13人目が紛れ込んでいるとかなんとか・・・」

上信越と並んで東北の日本海側は十二山の神信仰がさかんな場所らしいのですが、山の神さまにまつわる「12」という数にはどんな意味があるのだろう?上の話しは津軽の樵の話しとして知られているものと同じだろうと思いますが、山の神、風の神を「十二さま」と呼ぶのは不思議な共通項のように思います。単純に1年12ヶ月から来ているのかもしれないですけど。

その津軽の樵の話しは次のようなものです。
「十二という数は畏れ多いがゆえに、かえって忌まれている事例もある。津軽では木樵が山へ入るとき十二人になることを嫌い、また山小屋などで十二人が会することを恐れて、木の枝などで人形をこしらえ十三人に擬し、山中の祠に納めるという(十二山ノ神の信仰と祖霊観/東洋大学・菊地章太)」

集落の鎮守である十二神社は、毎年春と秋に行く十日町の松代にも集落を見下ろす場所にあるのですが、もしも先日見て来た古民家に住むようになったら、1人で山の中に入って行くことも多くなると思います。そのときのためにも、山の神さまのことを少し知っておいた方が良いのかなと、おぼろげながら感じたところです。
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子供を食べた仁王像 [いなかの伝承]

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かれこれ50年ほども前の記憶になりますが、子供の頃に化けネコと同じくらい恐かった記憶があります。それは木で彫られた仁王さまが子供を食べてしまったという話しです。そんな話しを聞いた記憶がある人がいるんじゃないかと思いますが、大まかな話しは次のようなものでした。

「むかし仁王門の近くに一軒の農家があり、母は泣き虫の子供に口癖のように『泣くと仁王さんに食われてしまうよ』といっていた。ある日泣きじゃくる子どもを置いて仕事をしていたが、気が付くと子どもの泣き声が聞こえない。必死になってあたりをさがしたが見つからず、「もしかしたら・・・」と、髪を振り乱し仁王門に来てみると、仁王の口から子どもの付紐が下がっていて、その付紐は木でできた仁王の口から生えているように、取ることができなかった」

ずっと忘れていたのですが、この仁王さまは自分で勝手に鎌倉にあると思っていました。もしかしたら最初にこの話しを知ったときに、鎌倉の話しとしてあったのかもしれません。でも、むかし母と行った鎌倉で「ああ、これがあの仁王さまか」と思った記憶もあるので、鎌倉にもこんな伝説があるのかもしれません。

で、どうしていきなりこんな話しを思い出したのかと言いますと、先日走って来たコースの慈光寺(前回のブログ)の仁王さまがまさにこの伝説の仁王さまだったんです。残念ながら昭和60年に焼失してしまい残っていないのですが、なんとなく「ここがそうなのか」と、古い記憶が呼び起こされてちょっと感慨深いものがありました。
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ちょっと鬼の話し・風祭り [いなかの伝承]

新潟県中部の魚沼地方では、吹雪の晩になると「ヤサブロバサ(弥三郎婆)が来て、悪い子を連れて行く」といい、子どもたちが恐れていたが、他地域では子どもを守る妙多羅天女として信仰されていたり、仲人をしたりと伝承も多様だ。

「ヤサブロバサは風の吹く日にあらわれる」と伝承されているところが多く、新潟県南魚沼郡では、風の神様が信仰されている。神様は「風の三郎さま」と呼ばれているが、同じように風を奉るのは先日行った、越本の無風安全を願う「風祭り」に通じるものがありそうだ。

ヤサブロバサの伝承が、なぜこれだけ広がりを持って伝えられていったのか。多種多様な性格を持ち、それぞれにまつわる伝説も付随している。それらは一見バラバラな伝承のようで、つながりがないようにも思えるが、最終的に弥彦に戻ることなど、関連性がみられる部分もある。

ヤサブロバサの信仰の中心となっている弥彦山系には、国上山があり、国上山の国上寺では酒呑童子がいた。酒呑童子は国上寺を追われてから、黒姫山、戸隠山、比叡山を転々として大江山に至る鬼です。そういえば戸隠の鬼無里にも行ったなぁ。

そうそう、上で越本の話しを出しましたが、越本と言えば小さな墓地がたくさんあると書いた記憶がありますが(http://photo-bici.blog.so-net.ne.jp/2012-09-14)、どうやらその理由は次の一文に通じるような気がします。というのは、弥彦神社周辺の家に仏壇はないそうで、埋葬も寺の墓地に埋めるのではなく、持ち山の山林に一人ずつ土葬していたというのです。それと同じように、それぞれの家で埋葬していた名残なのでしょう。

来週頭にはまた新潟県十日町の松代に行って来ます。今回はキノコ狩りですが、やっぱり十二社がいくつかあるようです。でも大きな信濃川があるせいか、こちら側には少ないような。
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鬼の話し・十二さま [いなかの伝承]

先日の休みに群馬県の沼田に出かけた事はすでにブログにだしましたが、その宿泊地、南北に細長い越本集落には唯一401号線が貫いているのですが、その入り口には十二様が奉られています。

さらに面白い事に、越本と越後湯沢の十二峠を結ぶ直線には十二沢、十二社があります。もちろんこの社は山の入り口、茅やススキの平地が雑木林に変わる辺りにあるのはいうまでもありません。

十二様とは山の神様で、古くから山仕事が多かった越本では山への信仰心が強く、毎月12日には十二さまにお詣りし、その日は山仕事を休んだといいます。越本の歴史は古く、1596年に開山した音昌寺が今も残っています。

昔の言葉(音)に適当な漢字を当てはめたものが現代に残る地名などは、漢字に惑わされず音の意味を考えると良い場合が多いそうですが、この十二さまはそれに習えば本来は「獣人あるいは山に住む人(じゅうにん)」が当てはまるのでしょうか?もっともこの山の神様は12人の子供を産むからという説が一般的です。

ちなみに越本には「お諏訪さま」という行事があり、昔は「風祭り」といわれ「無風安全」を願ったといいます。山仕事が多かっただけに、風の強い日、吹雪の日を恐れたのでしょうが、無風安全を願う行事は珍しいように感じます。

ともあれ、現地にいたときにはあまり気にもしませんでしたが、どうも気になって地図をだしてみたら面白かったです。予想通り、村の上下2つの入り口の十二様、日本全国の山神様を奉る社の7割が集まるエリアと向き合う場所に付けられた十二沢に十二社。

小さな集落なのに400年もの歴史を持つ越本の古い寺の文献なども調べたいものです。しかし偶然とはいえ、今回の旅行でこの地を選んだのは、なにかしらの力が働いたのでしょうか?その割にはなにもなかったのですが。

今日のブログはほとんどの人には全く意味が分からないと思います。申し訳ありません。
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不思議な話し [いなかの伝承]

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今回の現像フィルムの色がおかしいのは、光が漏れて被っているんじゃないかという気がする。このカットも下に被りがある。

以前、昔の記憶をたどって雪国で体験した話しを書いたことがあります(崖の上の女性 http://photo-bici.blog.so-net.ne.jp/2010-11-01 )。その後半部分でちょっと悲しい事故の話しを書いたのですが、最近その旅館についてちょっとした噂があることを耳にしました。

たいした話しではないのですが、どうやらその旅館には幽霊が出るらしいのです。それだけなら別に珍しい話しでもないのですが、興味深いのはその幽霊は人のいないときに限って、大きな湯船のある浴場にでるそうです。どうやら複数の人が見たらしいのですが、そこはやはりうわさ話。「どこの誰が」とまではわかりませんでした。

ただそれだけの話しですが、悲しい事故があって20年も経ってから、そんな噂が出るのも不思議なものです。もっとも当時の事故を知る人が話をするうちに、いろいろ尾ひれがついただけかもしれません。
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鬼無里の里 [いなかの伝承]

月、火曜日と仕事で長野県の鬼無里(きなさ)に行って来た。小さな村で鉄道からも離れているために人も少ないが、そのぶん昔の面影を残している。鬼無里の辺りには「青鬼(あおに)」と呼ばれる地区や、鬼にまつわる伝説などもいくつか残っているが、鬼無里の名前の由来が知られたものだろうか。

「むかし、天武天皇は信濃遷都を計画し、三野王(みぬのおう)、小錦下釆女臣筑羅(うねめのおみつくら)らを信濃に遣わした。使者は信州各地を巡視して候補地を探し、水内(みのち)の水無瀬(みなせ)こそふさわしいとなった。

これを知った土着の鬼どもは大いにあわて、『都など出来たら棲み家がなくなる。都が出来ぬよう、山を築いて邪魔しよう』と、一夜で山を築いた。鬼を憎んだ天皇は、阿部比羅夫(あべのひらふ)に命じて、鬼どもを退治させ、このときからこの山里に鬼はいなくなり、鬼無里と呼ばれるようになった」。

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安曇野には道祖神や野仏の類いが多いと言うが、鬼無里も負けず劣らず道祖神が多く、道が分かれるところにはことごとく道祖神が置かれている。

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「伝説の谷」と呼ばれる頂で、ちょうど太陽が雲の切れ間から光の帯を下ろして来た。

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この辺りではちょうど稲刈りのシーズンだった。

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何もないところだが、早朝の朝日は深い山並みを照らして美しかった。


タグ:ズマロン3.5
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刃引き [いなかの伝承]

昔から山に入る人間は、必ず刃物を携行しました。作業のためという理由は当然ながら、非常事態に備えた装備でもあり、何も持たずに丸腰で入山する事は、山をなめた危険な行為とされたのです。

そして刃物にはまた別の目的もありました。それは異界に潜む者から身を守る護身用としての役割です。全てが白日の下に晒された現代となってもなお、山に入り生活する少数の人々は、いまでもその戒めを守っています。

たとえば腰鋸には必ず一番手前の刃が一つだけ大きく作られていますが、これは昔から「鬼刃(おにば)」と呼ばれています。機能的には切断作業の際に刃体を誘導し、切り屑を排除する役割をしますが、古くから山で遭遇した異界の者を倒すための武器、鬼を切るためのものとされています。

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この腰鋸は秋田生まれで12歳から鋸の徒弟奉公を始め、新潟の三条に住んだという竹内英治作。古式に則った作りだというが、確かにいまの鋸には鬼刃が付いていないものも多い。

現実にはこんな小さな刃ひとつでなにができるのかと思いますが、鬼刃が付いていることで異界の者には絶大な効果があるとされたのでしょう。他に何も頼るものがない場合にそうした心の寄りどころがあったのは、気持ちをしっかりとするために役立ったのではと想像できます。こうした言い伝えを今に残した昔話しは「まんが日本昔ばなし」にもいくつかありますが「牛鬼淵(https://www.youtube.com/watch?v=jP9HzRK1omw)」が代表的なものかもしれません。最初のアドレスは削除されていたので、再度変更しました。

またノコギリだけでなく刃物にも同様の言い伝えがあります。たとえば「山では必ず刃物を持ち歩け。あやかし(魔物)や山に化かされないためだ。握りに近い部分を一寸ほど刃引きをしておけ。刃引き部分は鬼切口といってあやかしを斬るところだ」といわれています。

ここで現代と過去で言葉の意味が違って伝わったものがあります。「刃引き」です。居合いや剣術でもこの「刃引き」という言葉を使いますが、その意味は「本来付いている刃を落として、切れなくする」です。

ところが昔は違う意味でした。本来刃先は拡大してみると微細なギザギザが付いていて、このギザギザが肉などを切り裂いて行きます。極論すればノコギリも包丁もその原理は一緒です。「刃引き」とは、この歯先が細かなギザギザで、一見凹凸のないきれいな状態から、少し荒いノコギリ状にしておくことでした。こうすることで刃持ちも良く、刃こぼれなどもある程度は防げたのでしょう。

戦国時代の武将たちが「寝刃をあわす」などといい、戦の前には研いだ刀をわざわざ玄関先に置かれた石などでこすって歯先を荒らしたのも同様の理由です。

現代でも獣の皮を剥ぐ作業の多いハンター達は、専用の刃物は包丁などと違ってかなり粗い研石を使います。日本では山やアウトドアで使う刃物というと、木や竹を削る機会が多く、そのためには綺麗な刃先が適していました。しかし仕留めた獲物を切るには荒い刃先が適しているのです(包丁の研石は1000〜2000番以上も使うが、ハンター用は180番〜300番程度が多い)。

「山にいるとな、あやかしが目の前に現れることがある。そんときは包丁でも鉈でもいい、刃物の背を目に当てろ。刃をあやかしに向けて目を守るんだ。刃引きした鬼切口が切ってなくてもいい。じゃないと目をほじくられるぞ」と、昔の人は言ったようです。山での不思議な体験の対処法もいろいろあったようですが、それはまたの機会に。
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崖の上の女性 [いなかの伝承]

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鬼の話しなどを思い出していたら、当時のことがいろいろ頭に浮かんで来てしまった。夏でもないのに、ちょっと涼しげなお話です。

あれは20年ほど前のこと。確か信濃川の支流、KY2(まんまだな(^^;)川だったように思う。夏の日の午後に水中メガネをかけて川に潜ると、「これほどいるのか!」とびっくりするほど多くの鮎が水中の石という石に着いていた。適当に網を投げてもいくらでもとれただろう。もちろん投網で鮎を捕ることは禁止されているけど。

で、そんな川に夜になると入って行く。鮎やイワナ、ヤマメが岩の下の水流が弱くなったところで寝ているのを手掴みで捕まえると、魚に傷が付かずに高く売れるのだ。見てとれるので、サイズも大きいところで安定するのもメリットの1つ。

とはいえ、人気も明かりもない夜中の谷川など、よほどの度胸とあらゆることに対する自信がなければできることでもない。私も人について行けばできるが、1人でやれと言われたら、お金をもらってもやりたくないことだ。ただし、手掴みできる魚とりは氷水に浸かるような冷たさを我慢すれば、格別に楽しいことは確かだった(これはもちろん犯罪です)。

そんな夜中の川に連れて行ってくれたのは友人の弟さんで、雪の中カンジキを履いて猟に連れて行ってくれたり、雪原に山菜を取りに行ったり、「落ちたら死ぬよ、去年も亡くなった」と、ロープを伝って絶壁でワラビを採ったり、キノコ狩りに連れて行ってくれたりと、なにかと世話を焼いてくれた。熊狩りはさすがにおいて行かれたけど、常識は持ち合わせていたが、同時に遊びも心得ていた。体力も精神力も人一倍あったように思う。

その彼が顔面蒼白で戻って来たのはある夏の日の深夜だった。近くの定食屋の息子と一緒に川に入って行ったのだが、魚を捕っていてフッと気が付いて崖の上を見ると(この川の片側は数十メートルの崖になっているところが多い)、月をバックに白い服を着た長い髪の女性が立って見下ろしていたのだという。もちろん崖に上がる道などない。

最初はそんなところに人がいる訳はないと思ったものの、一緒に行った友人も同じものを同時に見ている。なにが起きた訳でもないが、あまりの恐さにふたりして逃げ帰って来たのだった。

そういえばこれを書いていて思い出したけど、このKY2川の上流には温泉があり、旅館が数件あったはずだが、20数年前だったろうか、川沿いに立つ旅館の1つが対岸から川を渡って押し寄せた雪崩で崩壊し、若おかみと子供2人など家族4名が亡くなった。当時はまだ雪が多く、数メートルも積もることが珍しくなかった時代。地元ではもちろん大きなニュースになったと言う。

雪崩のあった2年後の真冬(事故のことは知らずに)、新築旅館の広い湯船に1人浸かりながらも、冷気に包まれたように背中がゾクゾクしてちっとも暖まらず、「こんな良い温泉で、なんで体が温まらないのだろう?」と、不思議な思いで対岸の暗い雪の壁をずっと眺めていた。

翌朝ただ1人生き残ったご主人が送りに出てくれたが、そのとき雪崩の話しを伺い、暖まらなかった理由に自分なりの辻褄を合わせることが出来た。雪崩が起きたのは、若女将が子供ふたりとその湯船につかっていたときだったのだ。
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鬼の記憶 [いなかの伝承]

少し前に「鬼を見た話し」を思わせぶりに書いてしまいましたが、どうも「そっとしておいてくれ」と言われているような気がしてしまい、伏せておいたほうが良いような気がしてしまいました。ごめんなさい。

代わりに同じ地域の別の話しを。

あれはもう30年ほども前のことです。友人の実家は雪国の小さな町だけど、大きな町と繋がる峠の麓にタクシー会社があった。その1台がある雨の深夜に客を降ろして峠を帰路に向かっていた。この峠、いまでこそ雪よけのシェードやトンネルがあるが、当時はまだ雪崩や崖崩れがあったり、夏でも道を外して転落する車がある狭く険しい峠で、年に数度通るたびに新たな車の残骸を谷底に見ることができた。

その街灯もない暗い曲がりくねった峠道を進むと、傘も持たずずぶ濡れの女性がタクシーを止めようと手を挙げた。「こんなところで女1人なんて・・・」と、訝しげにその女客を乗せると行き先を確認した。ルームミラーにもちゃんと写っていた。

車を走らせたが、口数はなく行き先を言った後はずっと黙ったままだった。道中はミラーにも写らなくなったが、濡れているし夜中だから「横になっているのだろう」と先を急ぐ。ところが目的地に着くと、後ろの座席にいたはずの女性の姿は・・・なくなっていたといえば怪談話だが、実際はちょっと違った。

後ろのシートにはずぶ濡れのシカがちょこんと座っていたのだ。乗せたのは確かに女性だった。なによりシカはタクシーには乗らない。ドライバーはこの事件ですっかり混乱したのか、その後は仕事もできなくなってしまった。だがシカは目的地の家でその後も飼われることとなった。なぜかタクシーを降りても逃げなかったので、しかたなく飼うようになったのだという。私もその庭先で飼われているシカは見たことがあるが、ごく普通のシカだった。
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